その瞬間は、世界から音が消えた。
小さく笑う小鳥の囀りも、風のなかに揺れる草葉の囁きも、時を刻む音も、生命の鼓動すら。
ぱちりと目を開けたままの瞼の奥、深い黒の瞳、その奥に煌く光に、綱吉は目を奪われた。
(キラキラしてる……)
夜空に輝く一等星。朝靄を薙ぐ陽のように、息衝くような光。
光を縁取る長い睫毛が、ふるりと揺れた。
綱吉は口を開いた。
と同時に、リボーンの指先が動いた。
「えっ、」
翻った体。
もの凄い速さで遠ざかり、あっという間に扉の向こうに消えていった黒い背。全くの想定外である。
ようやく聞こえた世界の第一音は、ボンゴレ敷地内の一角にある農場に住むキャシーちゃんの声だった。
彼女はとても美しい二歳の雌牛だ。雄牛からの求婚ランキングダントツの一位だよーツナ兄ーとフゥ太くんから報告があった。
三日前である。その時綱吉はリボーンのことでいっぱいいっぱいでキャシーの恋愛事情を聞き流していたが、そのバチが当たったような気がした。
「……………逃げられた?」
(………ごめんよキャシー!)
生まれて初めての敗北感に全身を侵されるがままにリボーンは頭を抱えた。現在彼は、農場の隅っこにある小屋の中に居た世話係のトム(彼女絶賛募集中の三十二歳)を追い出し、暖炉の前で悶絶していた。
なぜだ。なぜ逃げた俺。しかも敵はあのダメ生徒である。アレなのである。オフになった途端裸足で絨毯の上に座り込み日本からお取り寄せした新作ゲームを潰しにかかり丸一日画面の前から動かないようなアレなのである。人の目を盗んでマイコレクションボックス(お菓子箱)からドルチェを掠め取り、口の端に証拠を残しときながら目を泳がせて全否定するようなアレなのである。………なので、ある。
口から漏れる呻き声は、果たして本当に自身のものなのか。己の脳みその中では走馬灯のように過去の思い出およそ二十年分が渦巻いている。あんな事やこんな事まで掘り返し、記憶の大半に琥珀の瞳を揺らめかせたつんつん頭のボンゴレ十代目がいることに妙な焦りが疼き思わず舌打ちが出たのはしょうがないことのように思える。あくまでも第三者から見れば。
「……何だっつーんだ」
『好きだ』
ふざけやがって。
あの瞳が己を射抜くなんて。
―――――そんなことがあってたまるか!
「……………………………」
綱吉の脳内には三枚のカードがあった。
『頑張ってリボーンを追いかけてもっかい告白しきっぱりとフラレる』
『このまま仕事を再開しリボーンと顔を付き合わせても「は?告白?お前夢でも見たんじゃねーの疲れてんだよそうだ休暇でもとったらどうかなはっはっは」と朗らかに笑いながら何もなかったことにする』
『逃げる』
どーする、オレ。
正に某究極の選択な状況(ちょっと古い)に追い込まれていた綱吉は、すっくと立ち上がった。
窓から差し込む光に照らされた童顔はきりっと空を見つめ、仕事でも滅多に見せぬ厳しい顔つきである。
「よし」
拳を胸に当て、綱吉は呟いた。
「逃げよう」
「……いやダメだろ」
「!!!」
勢いよく振り返った先には、呆れ返った顔のコロネロ。なぜコロネロ?
「なんで?」
「偶然だ、遊びにな」
ガシガシと金髪頭を掻きながら、バツが悪そうな顔で呟いた。
「出歯亀するつもりは無かったんだが……」
「えっ、」
(どうゆうこと?)
コロネロは沈痛な面持ちで綱吉を―――綱吉の前にある、デスクを指差した。
その上には荘厳に佇むマイク。
「………」
………………………………まさか。
微かに感じる地響きは、きっと気のせいでは無いはずだ。
「ボスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!!」
「じゅうだいめェェェェェェどーゆー事ですかァァァァァァ!!!?」
「つなァァァァァ!!!」
「ちょっアナタこの僕を騙しましたねェェェェェェェッッ!!!??」
なんか聞こえる。
「………………やべえ………」
――――まさに、恥さらし!
瞬時に窓枠に足をかけ、綱吉は真っ白な顔で振り向いた。
目が合ったコロネロは何と言っていいのかわからずただただ突っ立っているのみ。
だいぶ悲壮なオーラを纏い、ボンゴレ十代目は呟いた。
「……………………………いままでありがとうございました………」
「………えっ、」
ザンッ!
「――――――!!!」
慌てて窓に駆け寄り下を覗き込む。すでに遠く、駆け抜ける小さな姿があった。
「………くさってもマフィアだな」
というか。
「結局逃げやがった」