洗面台の前、綱吉はひっそりと佇んでいた。
ぼんやりとした明るさ、もうすぐ夜が明ける時間。
一睡も出来なかった。
無意識に、手は首筋を辿っていた。
歯で切られた痕は赤黒く血を固めていて、そっと触れると、固い感触と同時に鈍い痛みが生まれた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
こんな気持ちは生まれて初めてだった。何を考えているのかわからなかった。それ以上に、リボーンが何を考えているのか知ろうとするのを、拒絶している自分がいるのに気づいた。
リボーンが怖い。
リボーンが何を考えているのか、知るのが怖い。
『覚悟しろ』
囁かれた言葉。ぞっとするような冷たさだった。逃げられない。なぜかその言葉が脳裏に浮かんだ。
「よっ」
肩を叩かれ、リボーンは振り向いた。山本がにこやかに笑って立っていた。
周りからの好色ばった視線はいつものことで、二人は気にせず対峙した。
無言で見つめ合う少年たち。言葉を発しようとせず、それでも空気はだんだんと荒んだものになっていくのに、一人、二人と、段々足を止めて、息を潜めて見守っていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ごくり。
誰かの喉が鳴った。
それを皮切りにリボーンが口を開く。
「いい加減にしとけよ、テメー」
「おいおいおい」
山本は呆れたように両手を上げた。
「お前がそれを言うのか?」
再びの沈黙。
静まり返る空間。
教室の壁掛け時計の針が、カチ、カチ、と圧迫する。
リボーンは、口の端を上げた。同時に、山本も、ふ、と笑った。
その目をギラつかせて。
「ああ、殴りてえな」
山本の物騒な台詞に、周囲は固まった。
相反してリボーンは笑った。
「ああ、奇遇だな、」
いっそ清清しく。
「俺もだ」
自分の体に鉄の錘がぶらさがってるのではないだろうか。そう錯覚するほどに足取りはとても重かった。
ぼうっとした脳みそで目を擦り、綱吉は校舎の階段を一段一段、ゆっくりと踏みしめながら上った。
眠れなかったせいで体はフラフラだ。何度も転び落ちかけながら、やっと教室の階にたどり着いた。
「・・・・・・・・・・・・?」
妙な空気だ。廊下にたくさんの生徒が群れている。何かがぶつかる音。嫌な響き。鉄臭い。
嫌な予感。
綱吉は人ごみを掻き分け、進んでいた。頭の奥でサイレンが鳴る。急げ。早く。
「―――――――――ッ」
視界が拓けた瞬間綱吉が目にしたのは、まさにリボーンが山本の顔に拳を繰り出した瞬間であった。
がづっ、と鈍い音が響いた。小さな悲鳴が、泣き声が、興奮した声が、聞こえた。
山本はギラリとリボーンを睨みつけたが、それ以上の鋭い目でリボーンは再び山本に殴りかかった。が、今度はそれをかわし、山本はリボーンの腹に拳を入れた。それを避け、リボーンは足を振りかざした。山本が避ける。そのまま足は窓を突き破った。
「きゃああああ!」
誰か達の悲鳴が響き渡った。
周りの興奮したような、悲鳴の交じったざわめきが、壁のようだ。
何してんだ、お前ら。
「―――――、やめて!」
人ごみの中から一人、飛び出してきた人物。
綱吉は目を疑った。京子ちゃん。
振りかぶる拳はリボーンのものだった。山本を庇うように、そして綱吉には拳を上げたリボーンすら庇うように見えた。
京子は目を見開いて、両手を広げて、口を引き結んで、振るう腕を止められないリボーンと向き合っていた。
ああ、
惚れ直しちゃったじゃないか。
ゴッ!
「ツナくん!」
頬に焼けるような痛み。口の中で、刺すような苦味。鉄の味だ。
綱吉は思わず笑った。
良かった。無事だ。女の子の体に傷なんてつけらんねえもんな。
そこの馬鹿、ちゃんとフォローしとけ、よ。
そこで意識は途切れた。
「―――おい、何してんだ!」
教師の声に、生徒たちは慌てて散りかけた。それでもやはりこの光景は鮮烈であり、好奇心、困惑、怯え、複雑に絡まった視線が四人に降りかかっている。
拳を下げたまま、リボーンは、倒れた綱吉をじっと、呆然と見ていた。駆け寄った京子は半泣きで綱吉を揺さぶる。
「ツナくんっ、」
反応が返ってこないのに、京子は真っ青になった。綱吉は死んだように動かない。
「つ、つなく」
「触んな」
低く響いた声に、京子は身を震わせた。
リボーンは綱吉の傍に行こうと足を一歩踏み出した。
けれど、膝が笑っている。
(ツナが、遠い)
横たわった体。
やっとの思いで傍に蹲り、震える手で、そっと頬を撫でた。赤黒く腫れた頬。自分がつけた傷。
馬鹿だ。
みっともなく嫉妬して、八つ当たりして、あげく、傷つけて。
「ツナ、」
俺は。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あのー」
教師の怒号が飛び交う中、リボーンと京子は顔を上げた。
「言いにくいんだけど、」
険悪な目つきで睨むリボーンに、山本が困ったような、複雑な顔で頭を掻いた。
「たぶん、・・・・・・・・・・・・・寝てんじゃね?」
「・・・・・・・え」
二人は勢い良く顔を向けた。
目の下に隈を作った片割れは起きる気配も見せず、呑気にすやすやと寝息を立てている。
力が抜け、床に座り込んだ京子。親友の花が慌てて駆け寄る。
「は、」
リボーンは無言で綱吉の頭を叩こうとしたが、力なく下ろされた手はぽすんとツンツン頭に落下した。
ふは、と山本が笑った。