その魚は湖に住んでいた。

三日月の形をした、山の麓にひっそりとある湖だった。水は澄んでいた。

その魚は夜、月が天高く昇る頃に顔を出した。光が静かに水面に舞い降りたところに、そっと顔を出す。

魚は、月の光が好きだった。

 

 

 

 

 

「にいちゃん、なにしてんの」

ゆっくりと、男は振り返った。小学生くらいだろうか、少年がじっと男を見ていた。

黒い瞳は丸く輝いていて、不審や恐れといった表情は全く見られない。男はニヤリと笑った。

「そっちこそ、こんな時間に何してんだ」

「見に来た」

「何を」

「にいちゃん」

何だそれ、と男は笑った。少年は真面目な顔で言う。

「最近、知らん人がいるって。夜にここに来るって、オヤジが言ってた」

「ああ。そりゃ、俺だな」

どうでもよさそうに呟いて、男は再び前を向く。そこには三日月湖が一面に広がっている。

 

「なにしてんの」

「黙ってろ」

少年は口をつぐんだ。代わりに歩き出す。草を踏み分ける音が、ざっ、ざっ、と鳴った。

そして男が腰掛けている岩の傍に座り込んだ。その岩は少年の特等席だった。

膝を抱えて背を丸める姿に、男は僅かに目を開く。

「何だ」

少年は口を閉ざしたまま、男を見た。黙ってろ、って言ったのはにいちゃんだろ、と目が言っている。

男は笑い、再び前を向く。ひたすらに水面を見つめるその姿に、少年は何かを感じ、微かに身震いした。

 

今夜は、細い三日月だ。

僅かに聞こえる虫の声が遠くに響く。細い光は湖面を濡らし、何かがいるのか、僅かな波紋が時々広がっている。

静かだった。

少年は、知らず息を呑んだ。自分の心臓の音が聞こえる。

何かを待っているんだ。この男の人は、何か、誰か、それが来るのを待っているのだ。

 

 

 

 

ぱしゃん。

 

 

 

「――――うわっ!?」

男は突然立ち上がった。驚いて叫んだ少年は思わず湖に足を滑らせそうになったが、何とか踏みとどまる。

たった今、月明かりの奥で何かが跳ねた。

魚か何かだろう、と思った。が、男は無心で食入るように其処を見ている。

顔つきがだんだんと変わってゆく。それに続くかのように、風がびゅうん、とうなり、森がざわりとうねった。

 

「何なんだよ・・・」

「見てろ」

 

風が騒ぎを顰め、再び静寂が戻る。

揺れる湖面はだんだんと平らになるほどに、時間が過ぎた。

 

 

「」

 

 

喉から乾いた音が漏れた。

少年は驚愕した。

 

月の光がぼんやりとてらす奥のほうで、水面から何かが顔を出している。

僅かに当たる光が反射して、きらりと光った。それは一匹の魚だった。

色はよくわからない。だが、淡く光るその様は美しかった。目が大きくて、不思議と琥珀に輝いている。

少年には、その魚が月を見ているように思えた。遠い光を見つめ、何かに想いを馳せるかのように。

(ヌシだ)

少年には心当たりがあった。この湖にはヌシが居る。じいちゃんからも、そのまたじいちゃんの時からも言われていることだった。

姿は小さいが、その魚はここのヌシだという。多くの魚がここにいるのは、このヌシのおかげだ、と。湖の傍に豊かな緑が広がり、その奥の湧き水が途絶えないのは、森の神がヌシにその息吹を捧げているためだ、という言い伝えまである。

その魚は月の光が湖に下りた時、静かに現れる。そして月を見上げ、祈るのだという。

その濡れた小さな体を光らせながら。ただ、月だけを見て。

 

 

「見つけた」

 

 

少年は男を見た。

彼は震えていた。それが歓喜から来るものだということに少年は気付いた。

その表情が、長い間求めていた何かに出会えたような、渇きを潤す水をやっとの思いで手に入れたような、そんな顔をしていた。

その目がおかしな程に丸くなっていくのを見て、少年は気付いた。

 

このひと、にんげんじゃない。

 

そして再び驚愕した。男の瞳の色が変化してゆく。

 

深い闇の色をした瞳は、段々と色を持った。

それが夜明け前の藍から青、透き通った水色、夏の若葉の色、燃えるような炎の煌きへと移り、

 

最後に、太陽のごとく光を放った。

 

「うわっ!?」

 

眩しさに目をくらませ、少年は目を瞑った。瞳の奥が焼け付くように熱い。

ざぶん、と、何かが飛び込む音が聞こえた。すぐそばで。

 

 

少年が目を開けると、男は居なかった。

大きな波紋が足元に広がっている。それだけしかなかった。

はっ、と月の光の奥、湖面を見た。あの魚も、もう居ない。

 

 

 

少年は寒さにぶるりと身を震わせた。

夢だったのだろうか。

 

湖は静かだ。

 

「・・・・・・・・・・かえろ」

 

ざっ、ざっ、と草を踏み分け、少年は家路へ急いだ。早くここから離れたかった。

びゅうんっと風が大きくうなる。足を急がせた。

 

遠くで何かがぱしゃん、とはねた。その影はふたつ。背を向けた少年には見えなかった。